萩尾大学


萩尾大学とは、戦国時代の1570年頃豊臣秀吉日本統一の直前の時代に、兄祐繁との確執から地元を離れ一族郎党を引き連れて、福岡県糟屋郡篠栗町萩尾の山間を初めて切り開き村を作った武士である。 

子孫に伝わる二種類の系図によれば、旧名を「伊東繁連」と称したとなっている。藤原不比等の長男である武智麻呂(南家)の支流「工藤祐経」を祖とする日向伊東氏の出となっているが、これは定かではない。古書は明治時代に纏められた様で単なる伝承と思えるが、年配者の多くはこの説を強く主張している。江戸時代末期に嫡子「萩尾藤右衛門繁明」の記録があり「繁」の字を継承しているので、「伊東繁連」の名前は間違いないのだろう。兄は「祐繁」と言い、工藤祐経の「祐」と継承されている「繁」を備えている。

しかし父「繁邦」以前の記載内容はまったくの出鱈目であり、伝承による記録と考えられる。繁連以後はとても詳細な内容であり、何かの記録を写し取ったようである。






我家に伝わる伝承では、大友宗麟の家臣「」氏の世話で篠栗町萩尾(はぎのお)に移住したとされている。現在でも数多くの萩尾、藤姓が暮らしているので、この言い伝えは間違いないだろう。藤は「とう」と発音され、篠栗から粕屋、飯塚市に広がっていて萩尾姓の分布に似ている。何人か藤氏の知人に聞いたが「とう」の発音に対する伝承は持ってない様である。しかし岩屋城戦没者には、藤 和泉守、藤 織部の二名の名前があり武将の名である。明治31年の第250回と第300回萩尾大学法要にも  勝蔵、藤 万太郎の内橋地区からの参拝記録があり、萩尾大学との関係はかなり深いと思われる。

萩尾家系図によれば、兄祐繁は大分県松岡村長興寺にて自刃したとあり、直前は大分豊前国と思われる。大分市松岡の長興寺の南には、戸次(立花道雪)、萩尾の地名が南に連らなって現在でも残っている。兄との確執から萩尾村に隠れ住むと記されており、以前大分に住んでいた「萩尾」の地名を姓として名乗ったようである。「大学」とは、古くは二番目の相続権を意味していたとされる。繁連は末弟と書かれている。


大学の武士としての実績や剣の力量は相当あったらしく、大友宗麟の家臣立花道雪と高橋紹運に
【客侍】
として招かれている。朝倉郡筑前町に広い土地を宛がわれて、剣の指南、騎馬戦の指導をしている。筑前町の砥上神社(旧中津屋)には、萩尾大学がこの神社を再興したことが「福岡県地理全誌」「福岡県神誌」に記録されている。
この地では
「萩尾遠江守治種」と称し、神社の石碑にその名が刻まれている。南には、秋月氏、筑紫氏がいて、その防衛のためにも筑前町に大学を配したのだろう。

家中一の剣豪であり、高橋紹運の手足となり常に最前線で武団を率いて活躍して来た。そして数多くの武勇伝を残している。立花宗茂の剣の指南役でもあり、宗茂の初陣八木山峠の「石坂の戦い」では、宗茂と二人して敵将の首を獲っている。高橋紹運、立花宗茂の二代に渡って仕えた刺客ともいえるような存在であったようだ。






 「岩屋城の戦い


戦国時代に九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運の籠る岩屋城(大宰府)を落とした戦いである。 紹運以下の徹底抗戦は、最終的には玉砕で終結した。戦いは数千あれど最後の一人まで戦い続けたのは、この一戦だけである。
 岩屋城は十四日後に落城したが島津軍への打撃も大きかったため、立花山城攻略に時間を費やしているうちに、豊臣援軍20万が九州に上陸し、島津軍は薩摩本国への撤退を余儀なくされる。

紹運の命を引き換えにした抵抗は、結果的に島津軍の九州制覇を阻止することになり、秀吉の天下統一の遠因になった壮絶な戦いである。

全国統一を目指す秀吉は大友氏を配下にして、残る強敵は島津であった。島津義久は先手を打ち、九州制覇に向けて五万の兵を率いて北上して来た。途中の城を尽く落城、開城させて尚も味方を増やしながらの凱旋である。これを迎え撃つのは秀吉側の立花宗茂勢二千である。


大友宗麟は秀吉に援軍を依頼した。秀吉は山口毛利氏に援軍の指示出す。援軍が来るまで宝満城での籠城を必死に説く宗茂だが、実父「高橋紹運」は763名の手勢だけで「岩屋城」に構えた。宗茂の再三の説得も聞かず官兵衛の勧めも断り、我家同然の岩屋城で死を覚悟する。敵は五万、直接宗茂のいる立花城へ直行させてはならぬ。紹運は援軍到着までの時間を計った。

 

勢力を温存したい島津は、和睦の勧告を僧に委ねる。笑って追い返す紹運の言葉を聞き手強さを悟る。大軍勢で攻め込むが多数の戦死を出すのみ、再び有利な条件で和睦を行うが紹運は動じない。常に正攻法で攻める島津は多数の犠牲を出した。そして時だけが過ぎて行った。なおも島津の猛攻は続く。萩尾大学は、二の丸の守備を五十名で任されている。 

七月二十七日、ついに総攻撃が始まった。遺体を乗り越え続々と登ってくる敵軍に、岩屋城は遂に落城し壮絶な戦いは終わった。紹運は最早これまでと、銃声がやんだ一瞬に櫓に駆け上り腹を十字に切って果てた。

大学は紹運の最後を見届けると敵陣めがけて打って出た。見方の弱い所を駆け巡り死体の山を築くが多勢に勝てず、敵陣の銃弾に倒れたと伝えられている。残る負傷した五十の兵は念仏を唱え自害また刺しちがえて、島津兵が入城してきた時には全員が死んでいた。島津勢の被害者は、五千を超えたと記録されている。


秀吉は事の成り行きを聞き、紹運の忠義を【 戦乱の世に咲いた華】 と評した。





「萩尾大学再建の砥上神社」

萩尾大学は、篠栗町萩の尾で隠れる様に住んでいたが、時は戦国時代で武士としての戦歴を知っていた「戸次道雪」は、高橋紹運の長子である立花家後継ぎ「宗茂」のためにと大学を「客侍」として招き、現筑前町小田村に土地を与え乗馬、剣の指南役としている。騎馬戦の指導もあってかなり広大な土地だったらしい。すぐ南には宿敵秋月氏がいて、大学に期待するものは大きかったと思われる。

大学は秋月氏との戦いで朽ち果てた「旧中津神社」を再建し、大学の妻は「神鏡」を奉納している。 朝倉風土記、福岡県地理誌には、その記録が残っている。
 











 「篠栗町萩尾の子孫が建てた萩尾大学の墓」 

篠栗町霊場四十九番札所の雷音寺の前の量無間納骨堂の真裏にあります。その左側に細いコンクリート造りの道が、子孫達によって造られている。篠栗萩尾の地に一族の始祖の墓として祀られています。 


                  彼岸参りの叔父

萩尾大学の妻の墓






 

萩尾大学建立の「萩尾神社」
  明治時代の萩尾家のリーダー「萩尾善次郎」の名が刻まれています











 
萩尾善次郎」

須恵の歴史を現在に伝える 「海軍炭鉱創業記念碑」 新原公園






明治時代の篠栗町萩尾(はぎのお)の萩尾一族のリーダーである。

 
 明治21年に海軍予備炭山に指定されて、昭和39年に志免鉱業所が閉山するまで、開坑から閉山まで唯一国営の炭鉱がこの地にありました。国内で良質の石炭を探していた海軍は、有事の際に採掘する鉱山として、新原の炭鉱を明治21年に海軍予備炭山に指定し、新原採炭所を置きました。
 
のち海軍採炭所、海軍燃料廠採炭部、戦後は国鉄志免鉱業所と名称を変更しながら操業を続けました。 新原公園には、海軍炭坑に関する資料が集められています。ここは、昭和4年に志免町に燃料廠の庁舎が移転するまで、第4坑の庁舎が置かれていた場所にあたります。第三坑の坑口枠、海軍技師萩尾善次郎像、海軍炭坑第2坑竪坑址の道標など、海軍炭鉱の資料が現存する唯一の場所です。

 
善次郎は日露戦争の初期、明治三十七年七月に新原海軍炭鉱に赴任しました。
  その前は津波黒つばくろ炭鉱で青年時代を過ごしていました。 採鉱の技術者は、創業当時に、三池から着任した麻生政包が最初。次いで、高津亀太郎、間宮、石橋と続き、嘱託に石田技師。いずれも工学士だったということです。善次郎は石橋氏の下で五年間過ごし、次いでその跡を襲ったわけで、二十数年にわたり、採鉱技術面の要職にあったことになります。この間、九州帝大工学部永積教授の指導を受けたとも述べています。四十年間、大変災のなかったことが、この炭鉱の誇りでした。
 
 善次郎像は銅版で作られていたため顔だけを残し、功績が刻まれた銅版や顔以外の場所はすべて戦争に利用されて残っていません。胸の部分はセメントで造られているようです
   
萩尾善次郎は私の祖父の兄である。よって、我家には「善」のつく名前の者が多い。

当時善次郎の弟「一二」(いちじ)が鉱山で金脈を二ヶ所発見し、その資金を善次郎が管理していた。 ところが、過度の石炭発掘のため、須恵、志免の地盤が陥没をしてしまう。戦争時とあって海軍は民間人の裁判による訴えなど相手にしない。裁判を担当したのが善次郎であった。萩尾家の資金の多くが土地復旧に費やされたようである。

それが地位の低い善次郎に
【中興の功労者】として胸像が造られた理由である。