高橋紹運

     

          高橋 紹運(たかはし じょううん

 戦国時代の武将である。豊後国大友宗麟の家臣である吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父でる。天文17年(1548年)大友義鑑の家臣吉弘鑑理の次男として生まれる。

大友氏の家臣高橋鑑種が謀反を起こし、豊前国・筑前国・肥前国の国人がこれに連携して反乱を起こすと、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。反乱は、戸次鑑連(立花道雪)が指揮して鎮圧された。

そして、大友宗麟の指示で高橋氏の名跡を継ぐことを命じられ、岩屋城と宝満城の二城を与えられた。以後は北九州の軍権を任されていた立花道雪と名コンビを組み筑前国支配に貢献した。

天正6年に耳川の戦いで大友氏が薩摩国の島津氏に大敗を喫して衰退し始めると、肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、朝倉の秋月種実らが大友領への侵攻を開始する。この時宗麟は日向国や筑後国方面で島津氏・龍造寺氏と戦っていたために援軍を送れず、紹運の守る筑前国は半ば敵勢力の中に孤立した状況にあった。しかし紹運は道雪と協力して秋月氏や筑紫氏らを破り、その智略・武勇を見せつけた。

その後、実子のない道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を立花家の養嗣子にと請われる。統虎は高橋家の大事な跡継ぎでありその優れた器量も見抜いていたことから最初は拒絶したが、実の父のような存在である道雪の度重なる要請により遂にこれを受け入れた。

沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津氏の前に敗死すると、宗麟の命令で道雪と共に筑後国奪回を目指して侵攻を開始する。立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は大きく急変する。この頃、大友氏の宿老・家老格の名将らは耳川の戦いで多くが戦死し、後を継いだのは経験不足の未熟な武将ばかりであった。特に筑後方面では盟主といえる蒲池鑑盛の戦死に加え道雪の死去により、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまった。

これを好機と見た筑紫広門に宝満城を攻撃されて奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して萩尾・成富勢に宝満城へ救出に向かわせた。そして島津軍との決戦直前に筑紫広門と遂に和睦し、広門の娘を次男・立花直次(高橋統増)の正室に迎えた。 跡継ぎのいない宗茂に代わって、次男直次が家督を継いでいる。


天正14年(1586年)龍造寺を倒し九州最強となった薩摩の島津氏が、今度は残る大友氏を滅ぼし九州制覇を秀吉に認めさせるべく、総勢五万を号する大軍を率いて北上し、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。この時の高橋勢はわずかに七六三名で迎え撃ち、島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。

半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。

紹運は「もはや、これまで」と島津軍に攻撃の一時中止を訴え櫓に登って自刃した。紹運の死を見た残る五十名も念仏を唱えお互いに刺し違えまた腹を切り、島津軍は入城して来た時には全員が死んでいたという壮烈な戦いであった。

しかし、その頑張りが毛利援軍の到着に繋がり、島津軍は痛手があまりにも大きく帰郷することになった。この戦いが秀吉日本統一の遠因と言われている。 

  戦国史上稀に見る壮絶な戦いであり、ファンは多い。


          岩屋城本丸址  太宰府市四王寺山

       


            太宰府市四王寺山 紹運公胴塚

       


            二日市北  紹運公首塚

       

         
    
壮烈死武将 トップ3
    
  http://www.m-network.com/sengoku/sen-02.html

   第一位   高橋紹運
   第二位   山県昌景
   第三位   大谷吉継


        「高橋紹運公四百年祭」  昭和64年4月28日

                   

                           

ずらりと並ぶ「萩尾勢」